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これまではクレモナの巨匠を中心に名器を紹介してきましたが、今回はヴェネチアに舞台を移しましょう。特にヴェネチアで作られたチェロは、ライバルであるクレモナで作られたものに勝るとも劣らない質を誇ることで有名ですよね。 ヴェネチアでの楽器作り 一大都市国家として強大な力を持っていたヴェネチアには古くから弦楽器製作の伝統がありました。特に16世紀中頃から17世紀初期にかけては、極めて高品質のリュートやヴィオラ・ダ・ガンバが次々に生み出されていました。しかし、17世紀も中頃を過ぎると需要が減ったのか、リュート、ガンバ作りは共に急速に廃れてしまいます。そして、17世紀後半にこれらの楽器に取って変わったのがヴァイオリン属の楽器です。 現在ではヴェネチアの名工として知られるほとんどのヴァイオリン製作者は、実際にはヴェネチアの生まれではなく、移住民でした。ドメニコ・モンタニャーナ (Domenico Montagnana) はレンディナーラ、サント・セラフィン (Santo Serafin) はウーディネ、ピエトロ・グァルネリ (Pietro Guarneri) はクレモナにそれぞれ生まれています。 そして、今回お話しするマッテオ・ゴフリラ (Matteo Goffriller) は、当時ドイツ語圏であった南チロルの街、ブリクセン (伊:ブレッサノーネ) の出身です。 ゴフリラの生い立ち マッテオ・ゴフリラは、1659年2月、大家族の末っ子として生まれています。マッテオの姉であるカテリーナは一足先に故郷を離れヴェネチアに移り住んでおり、1658年頃から1672年まで、弦楽器職人マッテオ・カイザーの家に女中として仕えていました。まだ幼い頃から、姉を通してカイザーの仕事ぶりなどを聞かされていたことが、ゴフリラをヴァイオリン作りの道へと進めることになったのでしょうか。カイザー一族も北チロル、フュッセンの出身であったため、同郷の民として親近感も強かったのかもしれません。 ゴフリラがヴェネチアに移るまで彼がどこで何をしていたのかは、よく分かっていません。おそらく生まれ故郷であるブリクセンから50kmほど離れたボツェン (伊:ボルツァーノ) で活動していた製作者、マティアス・アルバーニ (Mathias Albani) のもとで、ヴァイオリン作りとしての技術を身につけていたのではないかと考えられます。 ゴフリラは1685年、26歳の時にヴェネチアに移住しています。既に職人としてかなりの経験を積んでいた彼は、マッテオ・カイザーの甥で、主にリュート作りを営んでいたマーティン・カイザー (Martin Kaiser) […]

【名器のお話し】 マッテオ・ゴフリラー 『ジャカール・ベルゴンツィ』


これまでニコロ・アマティ (Nicoló Amati) の作品を紹介すると共に、彼の弟子についてもふれてきました。ニコロ・アマティの弟子として確かな記録が残っているのは、ニコロ自身の息子、ジロラモ二世 (Girolamo II) を含めると17人います。アマティの弟子だったと一般に言われるアントニオ・ストラディヴァリですが、彼が本当にそうだったと決定づける資料は見つかっていません。 弟子入りと聞くと、長期間にわたり耐え忍びながら師匠の技を学ぶというイメージがありますが、ニコロに師事した弟子の大多数は、1年から2年ほどアマティ家に住み込みで働いた後に去っていきました。 唯一の例外は、跡継ぎのジロラモ二世を除くと、初期のアマティ工房を支えたアンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri) とジャコモ・ジェナーロ (Giacomo Gennaro) の二人です。 隠れた名匠ジャコモ・ジェナーロ アンドレア・グァルネリは、デル・ジェスを生み出したグァルネリ一族の創始者としてその名を残すだけではなく、彼自身もかなりの成功を収めた人物です。名前だけでも聞いたことがあるという方が多いのではないでしょうか。対して、ジャコモ・ジェナーロはというと、そんな名前は聞いたこともないという方がほとんどでしょう。 1624年頃に生まれ、1701年に亡くなったジェナーロは、遅くとも1641年から少なくとも1646年、またはその翌年まで、グァルネリと共にアマティ工房で働いていました。結婚を機にアマティ家を去ったその後も、近所に住みながらニコロの手伝いを続けたと思われています。 当時は重要な役割であった時計台の見張り役も務め、経済的にかなり余裕があったジャコモですが、独立した工房や店を営んでいたという痕跡はみられません。おそらく、作りかけ、もしくはほぼ完成した楽器をニコロに提供するという形で仕事をしていたのでしょう。 ジェナーロの作品はアマティのものと非常に似ているため、本来貼られていた彼自身のラベルが後世の人々によってニコロのものに差し替えられてしまい、より高価なアマティの作品として売られてしまった可能性もあります。 ここでご紹介しているのは、このジャコモ・ジェナーロが1650年頃に製作したヴィオラです。 この楽器には、もちろん師匠であるニコロからの影響が強く現われていますが、アントニオとジロラモのアマティブラザーズからの影響も顕著です。また、同僚であったアンドレア・グァルネリとの共通点も、特徴ある渦巻きなどに見出すことができます。 現存するアンドレア・グァルネリのヴィオラには、ジェナーロが作ったスクロールが付いているのではないかという作品もあります。 ずんぐりとしたボディですが、その輪郭は常に流れを意識したデザインなので、不細工には見えません。むしろ、ふくよかなラインが魅力的と言ったほうが適切でしょう。どことなくタツノオトシゴを思わせるf孔も、このヴィオラに親しみやすさを与えています。 これほどまでに優れた作品を生み出すことができた製作者の認知度が、あまりにも低すぎるのは残念だとしか言いようがありません。 魂のセンサス ニコロの弟子を判明させるのに重要な役割を果たすのは、「魂のセンサス」こと、イタリア語で「スタート・デレ・アニーメ (Stato del le […]

【名器のお話し】ジャコモ・ジェナーロ1650年ヴィオラ


1630年のペストの大流行によってニコロ・アマティ(Nicoló Amati)がイタリアで「実質上唯一」のヴァイオリン製作者となったと今までに何度かお話ししましたが、厳密に言うと、ニコロがただ独り残されてしまったわけではありません。 クレモナからそれほど離れていないブレシアでは、ペストで倒れたマジーニ(Giovanni Paolo Maggini)の死後にも、ほそぼそと活動していた製作者がいました。また、当時のクレモナにはチローニ(Cironi)とよばれる楽器作りの一族もいました。 ただし、このチローニ一族についての記録は比較的多く存在しているのですが、肝心な彼らが作ったとされる楽器が残っていません。チローニ家最後の製作者だったと思われるジェロラモ・チローニが死んだのは、奇しくもニコロ・アマティの才能と成功を象徴する作品『アラード』が作られた1649年です。 さて、この1649年はニコロ・アマティの後継者、ジロラモ二世(Girolamo II)が生まれた年でもあります。ニコロと妻ルクレッジアの間には9人の子供が生まれましたが、ヴァイオリンを作ることになったのは、ジロラモただ一人です。 ニコロは、ジロラモが生まれた時点で既に50代に突入していました。このため彼は、ジロラモになるべく早く自分の跡を継がせようとします。1660年代になると、ニコロは早速ジロラモに修行を始めさせました。 工房内でのジロラモの影響力はすぐに増していったようで、1660年代の後半になると、まだ若き青年だったジロラモの手癖がニコロの楽器に色濃く出てくるようになります。1670年以降にニコロ・アマティの作品として作られた楽器は、ニコロのラベルが貼られてはいますが、その大部分がジロラモの手によるものです。 ここでご紹介するのは、1675年にアマティ工房で作られた「グランド・アマティ」タイプのヴァイオリンです。「グランド・アマティ」とは、ニコロ・アマティがまだ若いころに開発し、その後に続いた製作者のお手本となったヴァイオリンのモデルです。ニコロが使用したモデルの中でも特に大きいサイズなので、後世の人々にそうよばれるようになりました。『アラード』などと比べて一回り大きいこのモデルを使って作られたニコロのヴァイオリンは、彼の楽器のなかでも特に人気があります。 このヴァイオリン、便宜上、ニコロの作品ということになってはいますが、ジロラモの影響が明白に現れています。より短く簡略化されたコーナー、堀が浅めのアーチ、華奢な羽を持ち直立気味に配置されたf孔などが特徴です。優雅さを前面に押し出していた初期のニコロの作品と比べて逞しさを増した作りとなっており、それに見合うかのように音色もより力強いものになっています。『アラード』と見比べてもらえば、その違いは明らかです。 ニコロの初期と、ジロラモの影響下にある後期のヴァイオリンのアーチとの違いについて、上の図に示しておきました。裏板のアッパーバウツとよばれる上部の断面を再現したものです。後期のアーチは窪みになっている堀の部分が、初期のものと比べて、より浅く、そして狭くなっているのが分かると思います。 17世紀のヴァイオリン工房というと、ほんの数人の職人が朝から晩まで工房にこもり、ただひたすら楽器を完成させていくというイメージがありますが、現実はかなり異なっていました。 工房では、楽器の製作が行われるだけではなく、楽器用の様々なアクセサリーも製造されていましたし、修理なども行われていました。また、楽器の査定や売買に関する仲介役も務めたことでしょう。現在でいうディーラーですね。アマティ工房のように王室や貴族からの注文を受けるためには、単なる職人としての技術だけではなく、交渉人としての技術も問われたはずです。 司祭であり、また音楽家でもあったドン・アレッサンドロ・ロディが他界した1661年、ニコロはロディ家に残された楽器を査定するために招かれています。このロディは、アマティ家のお得意さんでもあり、彼が所有していたコレクションのなかにはニコロによって作られたチェロとヴァイオリンも含まれていました。 この時に残された記録によると、ニコロ自身によって作られたチェロは22ドゥカトーニ、ヴァイオリンは15ドゥカトーニという値がつけられています。同じころ、フランチェスコ・ルジェリ(Francesco Ruggieri)によって作られたヴァイオリンは、4ドゥカトーニで売られていました。アマティの楽器がどのような評価を受けていたかがよく分かりますね。 アマティとルジェリにまつわる有名なこぼれ話に次のようなものがあります。1685年、音楽家トマッソ・アントニオ・ヴィタリが大金をはたいて買ったアマティのヴァイオリンが実はルジェリによるものだったことが発覚。救済を求めて公爵に訴えたというエピソードです。 アマティのラベルの下にルジェリのラベルが隠されていたそうですよ。大金をはたいて買ったヴァイオリンが実は4分の1の価値しかない偽物だった。これでは怒るのも無理ありません。 ヴァイオリン作りで成功していたにもかかわらず、ニコロは楽器作り以外のビジネスにも手を出していました。クレモナ市内の物件を購入して賃貸したり、はたまた郊外に農場に投資をしたり。 もっとも、これらのビジネスはいつも上手くいっていたわけではありません。1641年に576ドゥカトーニで購入した農場は、ローンを支払う間もなく、6年後に発生した紛争によって台無しにされてしまいます。 この不幸な出来事の後、ニコロは未払い分の借金の額を減らすように農場の売り手と交渉し、成功しますが、後にこの約束をめぐるトラブルに巻き込まれてしまいます。和解が成立したのは、なんと30年以上後の1681年。なんとまぁ、長期にわたって揉めていたものです。 1650年〜1670年はまさしくアマティ工房の絶頂期でした。この間に作られた楽器は数多く、アマティは商業的にも大成功を収めていました。そして、1670年代に入り、ニコロは第一線を退き、ジロラモに家業を引き継ぐ準備をしていきます。四世代目による、栄光に輝くアマティ家の新時代の幕開けです。立派な一人前の職人に成長したジロラモによって、アマティ工房はこれからもさらなる飛躍を遂げていくことでしょう。 しかし……、ここで妙なことが起こります。 ジロラモに工房が任されるようになった1670年以降、アマティ工房で作られる楽器の数は徐々に減少していくのです。何が起こっていたのでしょうか? 忌まわしいペストの大流行によって一時は瀕死状態にあったヴァイオリン作り。しかし、40年の時を経て、ニコロの才能と努力のお陰でその伝統は再び花を咲かせていました。 クレモナでは、愛弟子であったアンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri)が2人の息子と共に、アマティ工房の近所でまずまずの成功を収めており、また、フランチェスコ・ルジェリも4人の息子と共に精力的に活動していました。グァルネリとルジェリ一族は、富裕層を客層としていたアマティと異なり、おそらく手に入りやすい道具として楽器を売っていたと思われます。 そして、この時のクレモナには、もう1人、天才的な製作者がめきめきと頭角を現してきていました。もう皆さんには、誰のことだかお分かりですよね。そう、アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio […]

【名器のお話し】ニコロ・アマティ1675年製ヴァイオリン



名器とは、いったいどんな楽器のことをいうのでしょうか?ストラディヴァリウスは全て名器なのでしょうか? 「ストラディヴァリウス=名器」という考えの間違い 一般的にアントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)やグァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesu)などといった、誰もが知っている巨匠たちの楽器が紹介されるときには、必ずといっても良いほど「これは○○が17**年に作った名器の一つで…….」というような説明が付きますよね。 けれども「○○が製作したから名器だ」という考え方はできるだけ避けたほうが良いでしょう。なぜなら、たとえどんな名匠が作った楽器でも、個々の品質にばらつきが存在するからです。 これは、楽器だけにいえることではありませんよね。絵画もそうですし、焼き物などでもそうです。そしてもちろん、いかなる名演奏家の演奏についても同じことがいえます。ストラディヴァリウスだから名器だ、と決め付けるのはストラディヴァリにとっても失礼なことでしょう。 こんな話を冒頭にするのも、ここで紹介する楽器が、あまりにも素晴らしい出来栄えだったのでストラディヴァリ自身が死ぬまで手放せずにいた、と言われているヴァイオリンだからです。話の真相は今となっては闇の中ですが、ストラディヴァリによって1716年に生み出されてから、彼の死後37年経ったから1774年まで、実に約60年ほどの間、『メサイア』と呼ばれるこのヴァイオリンがストラディヴァリ家の外に出ることがなかったのは事実です。 作った本人が執拗に売ることを拒んだといわれる楽器、『メサイア』には、それだけの質があります。このようなものこそ、まさに名器とよばれるに相応しいのではないでしょうか。 ただし、客観的に見て、『メサイア』がストラディヴァリの最高傑作かとなると、また別です。万が一、市場に出ることになったら、史上もっとも高い値段のヴァイオリンになるのは間違いない『メサイア』。しかし、その価値は、後の項でも話す保存状態に依るところが大きいです。 メサイアという名の由来 1716年、この名器が作られたとき、アントニオ・ストラディヴァリは既に73歳でした。メサイアというのは、メシア、つまり救世主のことです。なぜヴァイオリンにこんな名前が付いているのか不思議に思いますよね? 通常有名なヴァイオリンには過去の所有者の名前がその楽器の名として付くことが多いですが、『メサイア』の場合は例外です。その経歴をたどってその名前の由来を明かしてみましょう。 永らくストラディヴァリ一家の手中にあった『メサイア』ですが、1774年頃、コジオ伯爵(Count Coziodi Salabue)という元祖ヴァイオリンコレクターとでもいうべき人が、アントニオ・ストラディヴァリの末っ子、パウロ(Paolo)から工房に残っていた数々の楽器をまとめ買いした際に、彼の手にはいります。 そして1827年、『メサイア』はコジオ伯爵からルイジ・タリシオ (Luigi Tarisio)という今では伝説的なイタリア人のコレクターの手に渡ります。タリシオは友好関係にあったパリ在住のディーラーや製作家 (有名なヴィヨームもその中の一人)にことあるごとにその『素晴らしいストラド』を自慢の種にするのですが、決して彼らに実物を見せることはしませんでした。 これが当時の演奏家ジャン=デルファン・アラード (Jean Delphin Alard)に「あぁ!君が言うそのバイオリンはまるで救世主(メサイア)みたいじゃないか!みんな待っているのに決して現われてはくれない!」と言わせることになります。 これがこのヴァイオリンが『メサイア』と呼ばれる所以です。 保存状態が抜群にいい では、その救世主なるヴァイオリンはいったいどんな楽器なんでしょうか? まず、『メサイア』を目にしたときに驚かされるのは、その保存状態でしょう。数あるストラディヴァリウスのなかで、これよりも状態が良いものはフローレンスにあるタスカン・メディチとよばれるヴィオラだけです。 ニスがほぼ全面に残っているのに加え、縁もほとんどすり減っておらず、とても300年前に作られた楽器を見ているとは思えません。使いこなされた楽器が持つソフトな外見に慣れ親しんでいる人にとっては、この『メサイア』が持つ鋭利で鮮明な姿が奇異に映るでしょう。 […]

【名器のお話し】アントニオ・ストラディヴァリ1716年『メサイア』


1630年代始めにイタリア北部を中心に猛威を振るったペストの流行によって、35歳という若さで、ニコロ・アマティ(Nicolò Amati)が実質上イタリア唯一のヴァイオリン製作者となってしまったことは、このコラムでお話ししました。 ストラディヴァリ、グァルネリと並んでヴァイオリン製作の三大巨匠に数えられるニコロ・アマティの名器を今回はご紹介します。 ニコロが、ジロラモ・アマティ (Girolamo Amati)とジロラモの後妻であるラウラ・ラッザリーニ(Laura Lazzarini)との間に生まれたのは、1596年12月3日のことです。 父親のもとで幼い時から修行を積んできたニコロですが、1620年代に入るとめきめき頭角を現し、1620年代後半には老いゆく父ジロラモに代わりアマティ工房を統括するようになります。このころにアマティの工房で作られた楽器には「アマティ兄弟」のラベルが貼られていますが、実際にはニコロが作ったものです。 有名な「グランド・アマティ」とよばれるモデルが初めて登場するのもこのころ、1628年のことです。その後まさに「標準仕様」となるモデルをまだ 30 歳になりたてのころに開発するとは、時代を先取りしたアイディアとそれを体現できる才能の持ち主だったのでしょう。 およそ100年ほども続いてきた家業を、ニコロへ円滑に継承させる準備をしていたジロラモ・アマティ。立派に育った息子が独自のスタイルを築きあげていくのを誇りに思い、新しい時代の到来を待ちわびていたのではないでしょうか。 奇しくも、飢餓とペストをイタリア北部にもたらし、結果、ジロラモの命を奪うことになる紛争が、勃発したのもこの1628年。残念ながら新世代の幕開けは、汚されたものとなってしまったのです。 立て続きに起こった惨事に打ちのめされたイタリア北部。経済の悪化と共にヴァイオリンの需要は、激減してしまいました。また、居場所をなくしてしまった親戚の世話役を務める義務を負うなど、ニコロは、一族の長として数々の責任を果たしながら、災害の後始末に追われていたようです。 ヴァイオリンを作っているどころではなかったのかもしれません。1630年代にニコロ・アマティによって作られた楽器の数は極少数です。 ペスト以前、アマティの工房は基本的に一族の者のみによって運営されていました。そのため、代々伝わってきた技と知識を一族内に留めることが出来たのです。しかし、妻子がおらず、仕事を手伝ってくれる者もいなかったニコロは、ある決断をします。 一族以外の者を弟子として受け入れることです。 それまで独占していた技術を外部に漏らす危険を冒すことになるわけですが、工房にいち早く以前の活気と成功を取り戻すためには、必要な改革でした。 ただし、クレモナ外からの弟子を採用することによって、将来の競争相手をなるべく減らそうとしました。よそ者のほうが、地元出身の人間よりも、独立後にそのままクレモナに居つく可能性が少ないとふんだのでしょう。 1640年代に入り工房が再び軌道に乗り出した頃に、ニコロは不動産に投資するなどして、ヴァイオリン作り以外のビジネスにも手を出すようになります。 思わぬ災害が再び起こり、また楽器が売れなくなった時のための保険だと考えていたのかもしれません。しかし、これらの副業が後に保険どころか、足かせとなってしまいます。なんとも皮肉なことですよね。 それまで妻子を持たずに一族を立て直すために奔走してきたニコロが、ようやく結婚したのは1645年、49歳の時でした。お相手は良家の出であるルクレッジア・パグリアリ(Lucrezia Pagliari)。当時としてはかなりの晩婚です。正直、ほっとしたのではないでしょうか。 挙式が挙げられたのは5月23日でしたが、その直前にニコロは小さな家を一軒、姪にあたるアンジェラ(Angela)に譲っています。彼女の母親、エリザベッタ(Elizabetta)はニコロの姉であり、ペストによって夫を亡くして以来、アンジェラと共にニコロの家を拠り所として暮らしていました。 当時のアマティ家は、召使い2人を含めた計10人が住む大所帯でした。アンジェラに母と共に住める住居を与えたのは、新妻のために家の中のスペースを確保しながらも、姉と姪に迷惑がかからないようにとの配慮でしょう。心憎い気配りです。 挙式の際、証人として立ち会ったのは他でもないアンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri)、三世代にわたって続き、グァルネリ・デル・ジェスを生み出したヴァイオリン作りの名家、グァルネリ家の創始者です。 アンドレア・グァルネリがニコロに弟子入りしたのがいつかは、はっきりしていませんが、1641年に製作された戸籍簿には、既にアンドレアの名前がもう一人の弟子、ジャコーモ・ジェナロ (Giacomo […]

【名器のお話し】ニコロ・アマティ1649年『アラード』


兄弟喧嘩のために、パートナーシップを1588年に解消してしまったアントニオ (Antonio)とジロラモ (Girolamo)のアマティ兄弟。これを機会に兄であるアントニオがヴァイオリン製作から引退してしまったために、アマティの工房はジロラモによって続けられていきます。 ジロラモは2回結婚しており、少なくとも計12人の子供がいました。そのうち、後にアマティ家随一の天才として知られるようになるのは、ニコロ・アマティ(Nicolò Amati)ですが、彼の他にもジロラモには3人の息子がいました。 その中でも特に興味深いのは、ロベルト(Robert)の存在です。 奇しくもジロラモとアントニオが別々の道を進むことになった1588年に生まれたロベルトは、アマティ家の長男として工房を継ぐことになるはずでした。ジロラモも多大な期待をよせていたことでしょう。まだ幼いころからマエストロになるための教育を父親から受けていたのは、ほぼ確実です。 そんな彼が、父親の工房でどのような役割を演じていたかは、実際にはまだ分かっていません。しかし、20歳代半ば頃から父親の右腕として活躍していた可能性は、十分あります。今回ご紹介する1611年製のヴァイオリンにも何らかの形で関与していたのかもしれません。 不幸にも、1615年、ロベルトは兵役中にポー川で事故死してしまいます。27歳の若さでした。 1611年にジロラモ・アマティによって作られたこの楽器は、2010年12月に英国ロンドンのオークションハウスの一つ、Brompton’s において£130,000 (約1,700万円)で取引されたものです。 現在では、ジロラモの手によるものだと認められていますが、競売にかけられた際には、慣習に従いアマティ兄弟の作品として出品されました。 今からちょうど 400年前に作られたこの楽器、残念ながら渦巻きはオリジナルではなく、後に交換されたものです。損傷した渦巻きを身近にあるものと取り替えてしまうという行為が、過去には頻繁に行われていました。 たとえその代用品が、オリジナルと同一の製作者によるものではなくてもです。こういった野蛮な修理の犠牲になったのは、渦巻きだけではなく、表板や側板などが取り替えられてしまった楽器もあります。 修復の技術、そしてなによりもそのモラルが進んでいる現在では、考えにくいことです。 楽器本体、特に裏板の状態は比較的良好です。それでも、コレクターズアイテムとしてではなく、4世紀にわたり道具として使われてきた楽器だけが持つ風格をそなえています。 このヴァイオリンの表板の厚さは中央部で約2.4mm、上下部では約 1.7mmと薄めですが、ひび割れの痕が所々に残ってはいるものの、ジロラモの特徴がよく現れた力強いアーチはそれほど歪んでいません。 表板にはよく目の詰まったスプルース、裏板には雲海を思い起こさせる杢が印象的な、板目で挽かれたメイプルの一枚板が、それぞれ使ってあります。 残念なことに、「アマティの黄金のニス」として有名なオリジナルのニスはほとんど残っていません。 父アンドレアの時代からヴァイオリンのデザインがどのように発展していったのかに興味がある方には、まず f孔に注目してみることをお勧めします。 アンドレア作『タリーハウス』、アントニオ作『メンデルスゾーン』、そして、ジロラモのf孔を並べた写真を載せておきますので、見比べてみてください。 徐々にノッチ、及び上部の円が小さく、そして、「羽」(ウィング)は逆に大きくなっていくのが分かりますよね。また、「脚」と「首」にあたる部分のカーブに、より丸みが帯びていくのが確認できます。 これらの変化によって、どちらかといえば上下の流れが目につく姿から、左右に幅を持った優雅な線の流れが際立つ作りになっていきます。 王室御用達ブランド、アマティ ジロラモとほぼ同時代を生きた音楽家に、クラウディオ・モンテヴェルディがいます。作曲家として有名な彼が、クレモナ出身だったということを皆さんはご存知でしょうか? モンテヴェルディが初めて書いたオペラ、1607年に初演された「オルフェオ」には、「小型のフレンチ式ヴァイオリン」を使うようにとの指示があります。この楽器は、通常のヴァイオリンよりも短3度高く調弦 […]

【名器のお話し】ジロラモ・アマティ1611年バイオリン