木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】アンドレア・グァルネリ 1697年『プリムローズ』

1630年代初めにイタリア北部で大流行した黒死病。そのために風前の灯火となってしまったヴァイオリン製作を救ったのはニコロ・アマティ(Nicolò Amati) でした。そのニコロの右腕として、長期にわたりアマティ工房を支えた人物がいます。その名はアンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri)。数々の名工を生み出した名家グァルネリの創始者です。

アンドレア・グァルネリとアマティの関係

現存するアマティ家の戸籍簿で一番古いのは1641年に記録されたものです。既にこの戸籍簿にはアンドレア・グァルネリの名前が、同じくニコロの弟子であったジャコモ・ジェナロ(Giacomo Gennaro)の名前と共に載っています。 

慣例では、この二人以前にフランチェスコ・ルジェリ(Francesco Ruggeri)がニコロの一番弟子として働いていたことになっています。しかし、ルジェリはクレモナ市内ではなく郊外に住んでいたこと、弟子だったと決定付ける記録が存在しないこと、楽器の外見は似ていても構造、及び製作法に違いが見られることなどから、近年ではこの説に疑いが持たれています。

アンドレア・グァルネリがクレモナから14km離れた位置にある小さな町、カザルブッターノに生まれたのは1623年7月13日のことです。どのような幼少期を過ごしたのかは、はっきりしていませんが、それなりに裕福な家庭であったようです。

1641年以前の戸籍簿が残っていないので、正確にアンドレアがいつアマティ家に辿り着いたのかは分かりません。当時、職人の見習いとして働き始めたのは12歳〜13歳のころだったので、アンドレアは1635年頃には弟子入りするのに丁度良い年頃になっていたことになります。ただし、アマティの戸籍簿ではアンドレアの年齢が誤解のためか実際の年齢よりも3歳ほど若くなっているので、その辺りを考慮すると実際には1638年頃に修行を始めたと考えるのがより自然でしょう。

ニコロとアンドレアはただの師弟以上の関係にあったようです。既に40代であったニコロには妻子がいなかったため、後継者としてほぼ養子同然にアンドレアを育てていたのかもしれません。アマティに関する数々の文書にアンドレアの名前が記録されている他、1645年にニコロが結婚した際には彼が証人として立ち会っています。

しかし、その後しばらくするとアンドレアはアマティ家を去っています。なんらかの理由で居づらくなったのでしょうか。1648年と1649年に記録された戸籍簿にはアンドレアの名前が見当たりません。アンドレアと一緒に働いていたジャコモ・ジェナロモも同時期に姿を消しています。

ところが、1649年にニコロの息子で、後に跡を継ぐことになるジロラモ (Girolamo II Amati)が生まれると、翌1650年の春には再びアマティ家の一員としてアンドレアが顔を見せています。彼をアマティ家に呼び戻すことになった理由は何だったのでしょうか。

グァルネリ工房の始まり

1652年12月31日、アンドレアはアンナ・マリア・オルチェリ(Anna Maria Orcelli)と結ばれています。結婚後も二人でしばらくの間、少なくとも翌年の春まではアマティ家に住んでいましたが、秋までには新居に移っています。引越し先はアマティ家の近所にある、オルチェリ一族が所有していた家でした。アンナ・マリアの持参金として贈られた建物です。

独立したアンドレアはすぐに精力的に製作活動を始めています。1650年代、1660年代に残された楽器の数から推測するに、成功を収めるのにそれほど時間を要さなかったようです。名高いアマティの愛弟子であったこと、しかもアマティのごく近所に工房を構えたことで、成功の基盤はしっかりと出来ていました。

この頃、アンドレアが去ったアマティ工房も全盛期を迎えていました。アンドレアとニコロとの間で客の奪い合いにはならなかったのでしょうか?

ニコロの祖父であるアンドレア・アマティ(Andrea Amati)の時代から常に富裕層の顧客を抱えていたアマティの工房に対し、グァルネリの工房は、それほど裕福ではない演奏家を相手に商売をしていました。上手にマーケットの住み分けをしていたようです。

ニコロ・アマティが現在標準とされる小型のヴィオラやチェロを作らなかったのに対し、アンドレア・グァルネリがそれらの楽器を作っていた理由もここにあります。まだ重要視されていなかったこのような楽器を高い値段でアマティに注文するよりも、安価で引き受けてくれるグァルネリに頼んだほうが経済的だったのです。

アンドレアとアンナ・マリアの間には計7人の子供が生まれており、そのうち、1655年に生まれたピエトロ(Pietro “of Mantua” Guarneri) と1666年に生まれたジュゼッペ・グァルネリ(Giuseppe Guarneri filius Andrea)が後にヴァイオリン製作者となっています。

1670年代にはピエトロも活発に製作に関与するようになり、グァルネリの工房は大成功します。クレモナ郊外にも農場を購入するなど、かなり豊かであったようです。

天才ストラディヴァリの登場

しかし、1680年にアントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)が、よりにもよって近所に引越しをしてくると、途端にグァルネリの工房は不景気に悩まされるようになりました。

翌1681年に残された記録には既にアンドレアが貧困であることが記されています。来たるべきトラブルを予期していたのか、長男であるピエトロはこの頃、既にクレモナを離れマントヴァに移住しています。

さらに、1683年、アンドレアは娘が結婚するための持参金を用意するために借金をしています。それまでの成功を考えると、想像し難いことです。

翌1684年、師であるニコロ・アマティが亡くなっています。この出来事が直接のきっかけになっているのかは分かりませんが、60歳を超えていたアンドレアは、この頃から息子、ジュゼッペ・フィリウス・アンドレアに工房を引き渡す準備をし始めています。

1687年からアンドレアは三度に亘り遺言状をしたためている他、工房での作業からも徐々に手を引きました。1690年代にアンドレア・グァルネリの名義で作られた楽器は、ほぼ完全にフィリウス・アンドレアの手によるものです。

グァルネリの傑作『プリムローズ』

今回ご紹介しているヴィオラ、1697年作『プリムローズ』もアンドレア・グァルネリのオリジナルのラベルが貼られてはいますが、実のところフィリウス・アンドレアが大部分を製作したものです。その名の通り、ウィリアム・プリムローズが愛用していたこのヴィオラは、過去に『ヴィオラ・スペース』の会場で展示されていたのをご覧になった方もみえるのではないでしょうか。最近ではベルリン・フィルで活躍したウルリヒ・フリッツェが愛用していました。

巨大なテノール・ヴィオラに代わり、小型で扱いやすいコントラルト・ヴィオラを初めて開発したのはアンドレア・グァルネリではありませんが、その形を完成させたのは彼だといえるでしょう。テノール製作を早くのうちに断念し、コントラルトの理想を追求したアンドレアのヴィオラは完成度が非常に高いものです。

くびれの少ないCバウツを持つヴィオラは、下手をすると不細工な格好になってしまいがちですが、アンドレアはこのハードルを流れる曲線で見事にクリアしています。長く伸びるコーナーは美しく、パーフリングの部分が深く掘り下げられていることもあり、それだけで一つの彫刻品の趣があります。

彫りの深いアーチはかなり高く、また、ふっくらとしています。しかし、その他のアンドレア・グァルネリのヴィオラに比べるとそれほど極端な作りではなく、どちらかといえば控えめです。

フィリアウス・アンドレアの癖が強く現れているf字孔は、アンドレア・グァルネリのf字孔よりもやや直立気味に配置されています。また、下方の羽の部分もアンドレアのそれと比べてより角張っています。

この羽の部分ですが、高音側のf字孔の上の羽には興味深いことに、のみの跡と思われる凹みがあります。このような凹みは他のグァルネリの楽器にも確認されるもので、f字孔の位置をマーキングする際に残ってしまったディバイダの傷を消した跡だという説が有力です。

フィリアウス・アンドレアの楽器によく見られる斜め方向に走るスクレーパーの跡ですが、このヴィオラにも確認できます。フィリウス・アンドレアは小さめののみ を多用しましたが、このヴィオラにもその跡が所々に残っています。

状態は必ずしも良好とはいえないスクロールですが、その大きめのサイズに反して軽い感触があります。まだ若かったフィリウス・アンドレアの才能がここにも発揮されています。カンマ「❜」の形をした目、ナイフで仕上げられたカクカクした喉元も特徴的です。

表板に使われているのは、アンドレア・グァルネリが頻繁に使用した、木目の幅が広く年輪が際立っているスプルースです。小さな節が数カ所に確認できます。

裏板に使われているのは、一枚板のかなり目立つ節がある板目のメープルです。そのまま使うには幅が足りなっかったのか、左右に足りない分の材を接いであります。このような節がある材木や、継ぎ足しをしてある裏板が使われているオールドイタリアンの名器は少なくありません。

このスプルースとメープル、1690年頃に作られた英国王立音楽院所蔵のアンドレア・グァルネリの材料と瓜二つです。裏板の接ぎ方まで似ており、この2つのヴィオラは同じ木から採れた材料を使って作られたものだと思われます。

プリムローズは、このヴィオラと初めて出会ったその日に、コンサート本番で試験的に使ったそうです。かなり大胆ですね。『プリムローズ』はそれまで一度もプロの演奏家によって使用されたことがなかったというのですから、さらに驚きです。プリムローズはこのヴィオラについて、ハイフェッツが使っていたデル・ジェスと特に相性が良かったと言っています。

新時代の幕開け

『プリムローズ』が作られた翌年、1698年は時代の変わり目を象徴する年になります。

この年、フランチェスコ・ルジェリが他界し、また、アマティ家の長になっていたジロラモ・アマティII も借金に追われクレモナから逃げ出しています。

そして、12月7日、75歳のアンドレア・グァルネリが永眠。若き見習いの身分から、一時期はアマティに次ぐ成功を収めた彼の最期は哀れなものでした。

しかし、アンドレアが亡くなる数ヶ月前の8月21日、この日、後にストラディヴァリと並んでヴァイオリン作りの頂点に立つことになる運命の子が生まれています。 

バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ、後のグァルネリ・デル・ジェスの誕生です。

アンドレア・グァルネリをモデルにしたヴィオラ

2006 Andrea Guarneri Viola 412mm

アンドレア・グァルネリ ビオラ アンドレア・グァルネリをベースにしたビオラです。 …

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