木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェス 1731年『メセアス』

ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェス (Giuseppe Guarneri del Gesù)が唯一作ったとされるチェロを今回はご紹介しましょう。

1720年代のクレモナ

アンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri)が他界したのと同じ年、1698年に生まれたジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェス (Giuseppe Guarneri del Gesù)。その彼が結婚後の数年間、どこで何をして暮らしていたのかが謎であることは、このコラムで『ヴュータン』を取り上げた際に書いています。

デル・ジェスが結婚をして家を離れた1722年を境にして、父フィリウス・アンドレアが製作した楽器の数も急激に減っています。1720年代にフィリウス・アンドレアとデル・ジェスによって作られた楽器の数は非常に少ないです。しかし、この頃、生産力が極端に衰えていたのはこの二人に限ったことではありません。

17世紀末にクレモナから逃げ出していたジロラモ・アマティ (Girolamo II Amati)は、この頃は既に故郷に戻ってきていましたが、隠居生活を送っていました。精力的に製作をしていたヴィンチェンゾ・ルジェリ (Vincenzo Ruggeri)が1719年に死んだ後、ルジェリ一族も目立った活動をしていません。カルロ・ベルゴンツィ (Carlo Bergonzi)がこの頃に残した楽器も極少数です。

©Bein&Fushi

実のところ、1720年代、クレモナでまともに機能していた工房は、ストラディヴァリの工房のみです。相変わらず繁盛していたストラディヴァリに対し、仕事が自分たちの工房に来なくなったグァルネリの親子。そこで、生計を立てるためにフィリウス・アンドレアとデル・ジェスは、この時期に仕方がなくストラディヴァリのために働いていたのではないか、という説があります。

グァルネリ一族、特にデル・ジェスはストラディヴァリと対極に位置する製作者だとされることが多いため、この説は突拍子もない話に聞こえます。しかし、ありえない話とは言い切れません。

物凄く雑で下手だったと思われがちなデル・ジェスですが、これはある意味誤解です。確かに後期の作品はワイルドですが、初期の作品に見られるのは、正確かつ優雅で繊細な職人技です。

また、1730年代始めに作られたデル・ジェスの作品には、ストラディヴァリからの影響がうかがえます。有名な例はデル・ジェスの『クライスラー (Kreisler)』というヴァイオリンと、ストラディヴァリの『ベッツ (Betts)』というヴァイオリンの f 字孔がほぼ同じデザインになっていることです。

フィリウス・アンドレアのヴァイオリンにもストラディヴァリからヒントを得たと思われる部分があります。さらに興味深いことに、1724年にフィリウス・アンドレアによって作られたヴァイオリンの表板の材料は、1717年から1723年に作られたストラディヴァリの木材と一致することが年輪年代学によって判明しています。

それでもグァルネリ親子がストラディヴァリの工房で働いていたとする説を疑問視せざるをえないのは、グァルネリの技術力うんぬんというよりも、底流にあるスタイルが違うからです。

意外かもしれませんが、グァルネリとストラディヴァリを比べた際に、アマティの伝統により忠実だったのはグァルネリのほうです。ところどころに見受けられるストラディヴァリからの影響もしょせん上辺だけのものであり、その本質はニコロ・アマティからアンドレア・グァルネリに伝授され、代々受け継がれてきたアマティの伝統に根ざすものです。

また、1720年頃からストラディヴァリの工房では、フランチェスコ (Francesco Stradivari)とオモボノ (Omobono Stradivari)、そしてジョヴァンニ・バティスタ・マルティーノ (Giovanni Battista Martino Stradivari)の三人の息子に加え、カルロ・ベルゴンツィがおそらく働いていたので、グァルネリ親子を雇う必要はなかったと思われます。

©Bein&Fushi

ラベル問題

デル・ジェスのラベルが初めて登場するのは 1727年のことです。この年以前のラベルは残っていません。1720年代に作られ、オリジナル・ラベルが残されているフィリウス・アンドレアの数もごくわずかです。

ヴァイオリンは通常、内部に貼られたオリジナル・ラベルに書かれた名前の製作者によるものだとされます。 ラベルを当てにするなとはよく言いますが、鑑定が可能なのは、そもそもオリジナル・ラベルがそのまま残っている楽器から得た情報をもとに築きあげたノウハウがあるからです。

もともと貼ってあったラベルが無くなってしまっている場合は、オリジナル・ラベルの楽器と比較して製作者、及び製作年代をはじき出します。したがって、特定の製作者のオリジナル・ラベル入りの楽器の数が極端に少ない場合には、問題が生じます。

例えば、カルロ・ベルゴンツィのオリジナル・ラベルは合計10枚ほどしか残っていません。幸いにもベルゴンツィのスタイルは安定しており、しかも特徴的なので、どれが真作かを見分けるのは比較的容易なのですが、どのベルゴンツィがどの年代に作られたものなのかを正確に推測するのは困難です。このような時には、年代別に分けられたオリジナル・ラベルの真作をもとに、作風の移り変わりや材料などからパズルを解いていくように推理していかねばなりません。

1720年代に作られた楽器には、グァルネリ親子両者が協力して作ったと思われるものがいくつか存在します。そこで問題になるのが、いったいどこまでを「フィリウス・アンドレア」の作品とし、どこからを「デル・ジェス」の作品とするのかということです。この問題については、フィリウス・アンドレア『セルデェ』の記事でも言及しています。

1729年に製作されたフィリウス・アンドレアのラベルが入ったチェロがあります。この楽器の大部分はフィリウス・アンドレアの手によるものですが、面白いことにデル・ジェスによって作られた表板が使ってあります。バロック式の製作法では、スクロール、測板、そして裏板がほぼ出来上がった後に表板を作り始める必要があります。そのため、このチェロは、フィリウス・アンドレアが作り始めたにもかかわらず仕上げることができず、デル・ジェスが代わりに完成させたものだと考えられます。

翌1730年にフィリウス・アンドレアは病院に入院しているので、彼が病に侵されたために製作を放棄せざるをえなくなったのが、この1729年作のチェロなのでしょう。

©Bein&Fushi
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デル・ジェスによる唯一のチェロ

奇跡的に生還を果たしたフィリウス・アンドレアですが、退院後は楽器を一人で作れる体力を持ちあわせていませんでした。しかし、どういうことか、彼のオリジナル・ラベルが貼られた1731年作のチェロが存在しています。このチェロが今回ご紹介している『メセアス (Messeas)』です。

この『メセアス』、実はデル・ジェスによって作られた唯一のチェロなのです。フィリウス・アンドレアが既に受け取っていた注文がまだ残っていたために、父親に代わりデル・ジェスが作ったものでしょう。

不思議なことに、このチェロはそれまで父フィリウス・アンドレアが使用してきたモデルとは違っています。どちらかといえば、ルジェリ、もしくはロジェリに近いデザインが採用されています。父親にオーダーされていたものなら、今までと同じモデルを使うのが自然だったはずです。父親とは別の独自のモデルを開発してやろうと意気込んでいたのかもしれません。しかし、この後、デル・ジェスがチェロを作った気配が一切ないため、『メセアス』のためだけにわざわざ新しいデザインをおこしたとは考えにくいです。

『メセアス』には楽器全体にのみや鉋の跡が豊富に残っています。後期のデル・ジェスと比べても、少し残り過ぎではないかと思ってしまいますが、父親に代わって急いで作ったという事情を考慮すれば納得できます。こちらで紹介しているフィリウス・アンドレアのチェロとも比べてみてください。

ボディの輪郭はトップとボトムの両端部分が極端に平たくなっています。アーチを見ると、裏板は表板よりもやや高く、膨らみもより丸みをおびています。父親のアーチと比べて、縁の彫りが狭く浅いのも特徴的です。

渦巻きもフィリウス・アンドレアとは異なる作風です。特に糸倉の形状、そして全体的により柔らかい雰囲気に違いが顕著に表れています。f字孔のラインは滑らかな曲線ではなく、上下のカーブを単に直線で繋げたような形をしています。カーブが直線になる変わり目にはカクッとした部分があり、これはデル・ジェスの f 字孔によく見られる特徴です。

材料はごちゃ混ぜです。表板は通常2枚のスプルース材を接いで作るところを、なんと 5 枚のスプルースを接いで作ってあります。また、裏板はウィロー、またはポプラ、側板にはビーチが使われています。

©Bein&Fushi

フィリウス・アンドレア工房デル・ジェス作?

『メセアス』を果たして「デル・ジェス」と呼んでも良いのかについては、 賛否両論あります。最初から最後までデル・ジェス本人が製作し完成させたものなのだから、「デル・ジェス」だとする意見。そして、名義上だけにせよ、当時父親の作品として売られたのだから、「フィリウス・アンドレア」とすべきだ、という意見があります。

ヒル商会のディーラ、鑑定家として一時代を築き上げたイギリスのヒル兄弟は、グァルネリ一族についての本を執筆した際に、デル・ジェスはヴァイオリンしか作らなかったとし、さらに 20 世紀初めに『メセアス』を取り扱った際、フィリウス・アンドレアの作品として売却しています。

もっとも、彼らはこのチェロにデル・ジェスが深く関与していたことを知っていたようで、アーサー・ヒルの日記にはその旨が記されています。ヒル商会のアプローチはこの件に限らず、かなり保守的、もしくは慎重と言えます。

しかし、ニューヨークのディーラー、レンベルト・ワーリッツァーと製作者シモーネ・フェルナンド・サッコーニは反対のアプローチを取っており、彼らが 1961 年に『メセアス』を売却した際には、「デル・ジェス」として売っています。

ワーリッツァーでは、フィリウス・アンドレアの作品に少しでもデル・ジェスの手癖が出ていると、「デル・ジェス」として鑑定書を書き、売っていました。そのようなヴァイオリンは少なくとも十数棹にのぼります。しかし、そのほとんどが現在では「フィリアウス・アンドレア」として再鑑定されています。

現代の専門家はヒルとワーリッツァーの中間のアプローチを取る傾向にあります。しかし、残念ながらこれは単純な問題ではありません。

なぜかはお分かりですよね。「お金」が絡んでくるからです。

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