アマティ


1630年のペストの大流行によってニコロ・アマティ(Nicoló Amati)がイタリアで「実質上唯一」のヴァイオリン製作者となったと今までに何度かお話ししましたが、厳密に言うと、ニコロがただ独り残されてしまったわけではありません。 クレモナからそれほど離れていないブレシアでは、ペストで倒れたマジーニ(Giovanni Paolo Maggini)の死後にも、ほそぼそと活動していた製作者がいました。また、当時のクレモナにはチローニ(Cironi)とよばれる楽器作りの一族もいました。 ただし、このチローニ一族についての記録は比較的多く存在しているのですが、肝心な彼らが作ったとされる楽器が残っていません。チローニ家最後の製作者だったと思われるジェロラモ・チローニが死んだのは、奇しくもニコロ・アマティの才能と成功を象徴する作品『アラード』が作られた1649年です。 さて、この1649年はニコロ・アマティの後継者、ジロラモ二世(Girolamo II)が生まれた年でもあります。ニコロと妻ルクレッジアの間には9人の子供が生まれましたが、ヴァイオリンを作ることになったのは、ジロラモただ一人です。 ニコロは、ジロラモが生まれた時点で既に50代に突入していました。このため彼は、ジロラモになるべく早く自分の跡を継がせようとします。1660年代になると、ニコロは早速ジロラモに修行を始めさせました。 工房内でのジロラモの影響力はすぐに増していったようで、1660年代の後半になると、まだ若き青年だったジロラモの手癖がニコロの楽器に色濃く出てくるようになります。1670年以降にニコロ・アマティの作品として作られた楽器は、ニコロのラベルが貼られてはいますが、その大部分がジロラモの手によるものです。 ここでご紹介するのは、1675年にアマティ工房で作られた「グランド・アマティ」タイプのヴァイオリンです。「グランド・アマティ」とは、ニコロ・アマティがまだ若いころに開発し、その後に続いた製作者のお手本となったヴァイオリンのモデルです。ニコロが使用したモデルの中でも特に大きいサイズなので、後世の人々にそうよばれるようになりました。『アラード』などと比べて一回り大きいこのモデルを使って作られたニコロのヴァイオリンは、彼の楽器のなかでも特に人気があります。 このヴァイオリン、便宜上、ニコロの作品ということになってはいますが、ジロラモの影響が明白に現れています。より短く簡略化されたコーナー、堀が浅めのアーチ、華奢な羽を持ち直立気味に配置されたf孔などが特徴です。優雅さを前面に押し出していた初期のニコロの作品と比べて逞しさを増した作りとなっており、それに見合うかのように音色もより力強いものになっています。『アラード』と見比べてもらえば、その違いは明らかです。 ニコロの初期と、ジロラモの影響下にある後期のヴァイオリンのアーチとの違いについて、上の図に示しておきました。裏板のアッパーバウツとよばれる上部の断面を再現したものです。後期のアーチは窪みになっている堀の部分が、初期のものと比べて、より浅く、そして狭くなっているのが分かると思います。 17世紀のヴァイオリン工房というと、ほんの数人の職人が朝から晩まで工房にこもり、ただひたすら楽器を完成させていくというイメージがありますが、現実はかなり異なっていました。 工房では、楽器の製作が行われるだけではなく、楽器用の様々なアクセサリーも製造されていましたし、修理なども行われていました。また、楽器の査定や売買に関する仲介役も務めたことでしょう。現在でいうディーラーですね。アマティ工房のように王室や貴族からの注文を受けるためには、単なる職人としての技術だけではなく、交渉人としての技術も問われたはずです。 司祭であり、また音楽家でもあったドン・アレッサンドロ・ロディが他界した1661年、ニコロはロディ家に残された楽器を査定するために招かれています。このロディは、アマティ家のお得意さんでもあり、彼が所有していたコレクションのなかにはニコロによって作られたチェロとヴァイオリンも含まれていました。 この時に残された記録によると、ニコロ自身によって作られたチェロは22ドゥカトーニ、ヴァイオリンは15ドゥカトーニという値がつけられています。同じころ、フランチェスコ・ルジェリ(Francesco Ruggieri)によって作られたヴァイオリンは、4ドゥカトーニで売られていました。アマティの楽器がどのような評価を受けていたかがよく分かりますね。 アマティとルジェリにまつわる有名なこぼれ話に次のようなものがあります。1685年、音楽家トマッソ・アントニオ・ヴィタリが大金をはたいて買ったアマティのヴァイオリンが実はルジェリによるものだったことが発覚。救済を求めて公爵に訴えたというエピソードです。 アマティのラベルの下にルジェリのラベルが隠されていたそうですよ。大金をはたいて買ったヴァイオリンが実は4分の1の価値しかない偽物だった。これでは怒るのも無理ありません。 ヴァイオリン作りで成功していたにもかかわらず、ニコロは楽器作り以外のビジネスにも手を出していました。クレモナ市内の物件を購入して賃貸したり、はたまた郊外に農場に投資をしたり。 もっとも、これらのビジネスはいつも上手くいっていたわけではありません。1641年に576ドゥカトーニで購入した農場は、ローンを支払う間もなく、6年後に発生した紛争によって台無しにされてしまいます。 この不幸な出来事の後、ニコロは未払い分の借金の額を減らすように農場の売り手と交渉し、成功しますが、後にこの約束をめぐるトラブルに巻き込まれてしまいます。和解が成立したのは、なんと30年以上後の1681年。なんとまぁ、長期にわたって揉めていたものです。 1650年〜1670年はまさしくアマティ工房の絶頂期でした。この間に作られた楽器は数多く、アマティは商業的にも大成功を収めていました。そして、1670年代に入り、ニコロは第一線を退き、ジロラモに家業を引き継ぐ準備をしていきます。四世代目による、栄光に輝くアマティ家の新時代の幕開けです。立派な一人前の職人に成長したジロラモによって、アマティ工房はこれからもさらなる飛躍を遂げていくことでしょう。 しかし……、ここで妙なことが起こります。 ジロラモに工房が任されるようになった1670年以降、アマティ工房で作られる楽器の数は徐々に減少していくのです。何が起こっていたのでしょうか? 忌まわしいペストの大流行によって一時は瀕死状態にあったヴァイオリン作り。しかし、40年の時を経て、ニコロの才能と努力のお陰でその伝統は再び花を咲かせていました。 クレモナでは、愛弟子であったアンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri)が2人の息子と共に、アマティ工房の近所でまずまずの成功を収めており、また、フランチェスコ・ルジェリも4人の息子と共に精力的に活動していました。グァルネリとルジェリ一族は、富裕層を客層としていたアマティと異なり、おそらく手に入りやすい道具として楽器を売っていたと思われます。 そして、この時のクレモナには、もう1人、天才的な製作者がめきめきと頭角を現してきていました。もう皆さんには、誰のことだかお分かりですよね。そう、アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio […]

【名器のお話し】ニコロ・アマティ1675年製ヴァイオリン


1630年代始めにイタリア北部を中心に猛威を振るったペストの流行によって、35歳という若さで、ニコロ・アマティ(Nicolò Amati)が実質上イタリア唯一のヴァイオリン製作者となってしまったことは、このコラムでお話ししました。 ストラディヴァリ、グァルネリと並んでヴァイオリン製作の三大巨匠に数えられるニコロ・アマティの名器を今回はご紹介します。 ニコロが、ジロラモ・アマティ (Girolamo Amati)とジロラモの後妻であるラウラ・ラッザリーニ(Laura Lazzarini)との間に生まれたのは、1596年12月3日のことです。 父親のもとで幼い時から修行を積んできたニコロですが、1620年代に入るとめきめき頭角を現し、1620年代後半には老いゆく父ジロラモに代わりアマティ工房を統括するようになります。このころにアマティの工房で作られた楽器には「アマティ兄弟」のラベルが貼られていますが、実際にはニコロが作ったものです。 有名な「グランド・アマティ」とよばれるモデルが初めて登場するのもこのころ、1628年のことです。その後まさに「標準仕様」となるモデルをまだ 30 歳になりたてのころに開発するとは、時代を先取りしたアイディアとそれを体現できる才能の持ち主だったのでしょう。 およそ100年ほども続いてきた家業を、ニコロへ円滑に継承させる準備をしていたジロラモ・アマティ。立派に育った息子が独自のスタイルを築きあげていくのを誇りに思い、新しい時代の到来を待ちわびていたのではないでしょうか。 奇しくも、飢餓とペストをイタリア北部にもたらし、結果、ジロラモの命を奪うことになる紛争が、勃発したのもこの1628年。残念ながら新世代の幕開けは、汚されたものとなってしまったのです。 立て続きに起こった惨事に打ちのめされたイタリア北部。経済の悪化と共にヴァイオリンの需要は、激減してしまいました。また、居場所をなくしてしまった親戚の世話役を務める義務を負うなど、ニコロは、一族の長として数々の責任を果たしながら、災害の後始末に追われていたようです。 ヴァイオリンを作っているどころではなかったのかもしれません。1630年代にニコロ・アマティによって作られた楽器の数は極少数です。 ペスト以前、アマティの工房は基本的に一族の者のみによって運営されていました。そのため、代々伝わってきた技と知識を一族内に留めることが出来たのです。しかし、妻子がおらず、仕事を手伝ってくれる者もいなかったニコロは、ある決断をします。 一族以外の者を弟子として受け入れることです。 それまで独占していた技術を外部に漏らす危険を冒すことになるわけですが、工房にいち早く以前の活気と成功を取り戻すためには、必要な改革でした。 ただし、クレモナ外からの弟子を採用することによって、将来の競争相手をなるべく減らそうとしました。よそ者のほうが、地元出身の人間よりも、独立後にそのままクレモナに居つく可能性が少ないとふんだのでしょう。 1640年代に入り工房が再び軌道に乗り出した頃に、ニコロは不動産に投資するなどして、ヴァイオリン作り以外のビジネスにも手を出すようになります。 思わぬ災害が再び起こり、また楽器が売れなくなった時のための保険だと考えていたのかもしれません。しかし、これらの副業が後に保険どころか、足かせとなってしまいます。なんとも皮肉なことですよね。 それまで妻子を持たずに一族を立て直すために奔走してきたニコロが、ようやく結婚したのは1645年、49歳の時でした。お相手は良家の出であるルクレッジア・パグリアリ(Lucrezia Pagliari)。当時としてはかなりの晩婚です。正直、ほっとしたのではないでしょうか。 挙式が挙げられたのは5月23日でしたが、その直前にニコロは小さな家を一軒、姪にあたるアンジェラ(Angela)に譲っています。彼女の母親、エリザベッタ(Elizabetta)はニコロの姉であり、ペストによって夫を亡くして以来、アンジェラと共にニコロの家を拠り所として暮らしていました。 当時のアマティ家は、召使い2人を含めた計10人が住む大所帯でした。アンジェラに母と共に住める住居を与えたのは、新妻のために家の中のスペースを確保しながらも、姉と姪に迷惑がかからないようにとの配慮でしょう。心憎い気配りです。 挙式の際、証人として立ち会ったのは他でもないアンドレア・グァルネリ (Andrea Guarneri)、三世代にわたって続き、グァルネリ・デル・ジェスを生み出したヴァイオリン作りの名家、グァルネリ家の創始者です。 アンドレア・グァルネリがニコロに弟子入りしたのがいつかは、はっきりしていませんが、1641年に製作された戸籍簿には、既にアンドレアの名前がもう一人の弟子、ジャコーモ・ジェナロ (Giacomo […]

【名器のお話し】ニコロ・アマティ1649年『アラード』


兄弟喧嘩のために、パートナーシップを1588年に解消してしまったアントニオ (Antonio)とジロラモ (Girolamo)のアマティ兄弟。これを機会に兄であるアントニオがヴァイオリン製作から引退してしまったために、アマティの工房はジロラモによって続けられていきます。 ジロラモは2回結婚しており、少なくとも計12人の子供がいました。そのうち、後にアマティ家随一の天才として知られるようになるのは、ニコロ・アマティ(Nicolò Amati)ですが、彼の他にもジロラモには3人の息子がいました。 その中でも特に興味深いのは、ロベルト(Robert)の存在です。 奇しくもジロラモとアントニオが別々の道を進むことになった1588年に生まれたロベルトは、アマティ家の長男として工房を継ぐことになるはずでした。ジロラモも多大な期待をよせていたことでしょう。まだ幼いころからマエストロになるための教育を父親から受けていたのは、ほぼ確実です。 そんな彼が、父親の工房でどのような役割を演じていたかは、実際にはまだ分かっていません。しかし、20歳代半ば頃から父親の右腕として活躍していた可能性は、十分あります。今回ご紹介する1611年製のヴァイオリンにも何らかの形で関与していたのかもしれません。 不幸にも、1615年、ロベルトは兵役中にポー川で事故死してしまいます。27歳の若さでした。 1611年にジロラモ・アマティによって作られたこの楽器は、2010年12月に英国ロンドンのオークションハウスの一つ、Brompton’s において£130,000 (約1,700万円)で取引されたものです。 現在では、ジロラモの手によるものだと認められていますが、競売にかけられた際には、慣習に従いアマティ兄弟の作品として出品されました。 今からちょうど 400年前に作られたこの楽器、残念ながら渦巻きはオリジナルではなく、後に交換されたものです。損傷した渦巻きを身近にあるものと取り替えてしまうという行為が、過去には頻繁に行われていました。 たとえその代用品が、オリジナルと同一の製作者によるものではなくてもです。こういった野蛮な修理の犠牲になったのは、渦巻きだけではなく、表板や側板などが取り替えられてしまった楽器もあります。 修復の技術、そしてなによりもそのモラルが進んでいる現在では、考えにくいことです。 楽器本体、特に裏板の状態は比較的良好です。それでも、コレクターズアイテムとしてではなく、4世紀にわたり道具として使われてきた楽器だけが持つ風格をそなえています。 このヴァイオリンの表板の厚さは中央部で約2.4mm、上下部では約 1.7mmと薄めですが、ひび割れの痕が所々に残ってはいるものの、ジロラモの特徴がよく現れた力強いアーチはそれほど歪んでいません。 表板にはよく目の詰まったスプルース、裏板には雲海を思い起こさせる杢が印象的な、板目で挽かれたメイプルの一枚板が、それぞれ使ってあります。 残念なことに、「アマティの黄金のニス」として有名なオリジナルのニスはほとんど残っていません。 父アンドレアの時代からヴァイオリンのデザインがどのように発展していったのかに興味がある方には、まず f孔に注目してみることをお勧めします。 アンドレア作『タリーハウス』、アントニオ作『メンデルスゾーン』、そして、ジロラモのf孔を並べた写真を載せておきますので、見比べてみてください。 徐々にノッチ、及び上部の円が小さく、そして、「羽」(ウィング)は逆に大きくなっていくのが分かりますよね。また、「脚」と「首」にあたる部分のカーブに、より丸みが帯びていくのが確認できます。 これらの変化によって、どちらかといえば上下の流れが目につく姿から、左右に幅を持った優雅な線の流れが際立つ作りになっていきます。 王室御用達ブランド、アマティ ジロラモとほぼ同時代を生きた音楽家に、クラウディオ・モンテヴェルディがいます。作曲家として有名な彼が、クレモナ出身だったということを皆さんはご存知でしょうか? モンテヴェルディが初めて書いたオペラ、1607年に初演された「オルフェオ」には、「小型のフレンチ式ヴァイオリン」を使うようにとの指示があります。この楽器は、通常のヴァイオリンよりも短3度高く調弦 […]

【名器のお話し】ジロラモ・アマティ1611年バイオリン



以前ご紹介した「ヴァイオリンの父」、アンドレア・アマティには5人の子供がいました。アポロニア(Apollonia)、エリザベッタ (Elisabetta)、ヴァレリア (Valeria) の3人の娘、そして、アントニオ(Antonio)とジロラモ(Girolamo、又はラテン語で Hieronymus) の2人の息子です。 このアントニオとジロラモが、通称「アマティ兄弟」(the Brothers Amati)として知られるアマティ家2代目のヴァイオリン製作者です。 なぜ「アマティ兄弟」なのでしょうか? もちろん、それは彼らが血のつながった兄弟であったからなのですが、その他にもこの二人が共同して楽器を製作、そして工房を経営していたからだという理由があります。彼らの楽器には通常、「Antonius & Hieronymus Fr. Amati」というようにアントニオとジロラモの名前が揃って記されたラベルが貼られています。 残念ながら父アンドレアと同様、アントニオについての記録はあまり残っていませんが、1556年に徴兵のためにクレモナで編集された名簿には、「リュートを作るマエストロ」としてアントニオの名が登録されています。 リュートと聞いて少し不思議に思う人がいるかもしれません。急速に市民権を得ていったとはいえ、当時のヴァイオリンは比較的新しい楽器。まだその全盛期にあったリュートとは違い、ヴァイオリンという言葉自体があまり普及していなかったようです。 実は、現在も『ヴァイオリン製作者』にあたるイタリア語は『Liutaio』で、こちらの語源も『リュート作り』です。 当時徴兵の対象になったのは16歳から50歳までの男性だったので、この時点でアントニオは少なくとも16歳、生まれたのは遅くとも1540年になります。既にマエストロを名乗っているからには、もう数年ほど早く生まれていたのでしょう。 アントニオの弟ジロラモが生まれたのは、1584年に書かれた委任状にジロラモの年齢が 23 歳だと記録されていることから、1561年のことだと分かるのですが、どうやらこれもそう単純な問題ではなさそうです。 というのも、ジロラモが一人目の妻であるルクレツィアと結ばれたのが 1574 年だという記録が残されているからです。1561年に生まれていたとしたら、なんとジロラモは13歳で結婚(!!!)したことになります。全く不可能ではないですが、考えにくいことですよね。 どちらにせよ、アントニオとジロラモの年は少なくとも十数年以上離れていたいたことは確かです。おそらく、腹違いの兄弟だったのでしょう。 アンドレアのもとで幼い頃から弟子として腕を磨いていたアントニオですが、1560年代に入ると彼独自の「癖」がアンドレアの作品に顕著に現れてきます。 ただの見習いとして父親の手伝いをするだけではなく、立派な一人前の職人として認められ、楽器の製作過程でより重要な役割を果たすようになっていたのでしょう。 1560年代後半からアンドレアが亡くなる 1577年までの間にアマティの工房で作られた楽器は、アンドレアのラベルが貼られてはいますが、実際には主にアントニオの手によるものです。 […]

【名器のお話し】アントニオ・アマティ1588年『メンデルスゾーン』


「ヴァイオリンの父」とよばれるアンドレア・アマティ(Andrea Amati)。四世代にわたり続いたヴァイオリン作りの一族、アマティ家の初代です。 ヴァイオリンを発明したのは? アンドレア・アマティが「ヴァイオリンの父」と呼ばれてはいますが、この呼び名は誤解を招く言い方です。既に存在していた楽器をもとに複数の職人が試行錯誤を重ねていった結果、ヴァイオリンは今私たちが知るような形になりました。なので、アンドレア・アマティがヴァイオリンを「発明」したわけではありません。 しかも、彼以前にヴァイオリンらしき楽器を作っていた職人もいます。しかし、確かな記録が残されており、なおかつ作品が現存するヴァイオリン製作者としてはアンドレア・アマティが史上初の人物となります。 頻繁にアンドレアと同列に論じられる製作者にブレシアのガスパロ・ダ・サロ(Gasparo Bertollotti da Salò)がいます。 過去にはガスパロこそが「ヴァイオリンの父」、そしてさらには、アンドレア・アマティの師匠だと思われていたことがありました。 しかし、実際にガスパロが生まれたのは1540年のことで、この前年にはアンドレア・アマティは、既に「マエストロ」としてクレモナに物件を借りています。アンドレアはこの時点で一職人としてそれなりの位置を確立していたのでしょう。 お店、別棟、それに中庭がついたこの立派な建物が、その後200年以上にわたりアマティ一族の住処、そしてヴァイオリン作りの拠点となります。 ガスパロ・ダ・サロがなぜ、ヴァイオリンの始祖だと思われていたのかは、彼とアンドレア・アマティの作品を比べてみると理解できます。幾何学に基づいているとはいえ、単純な円を基本にデザインされているのが、ガスパロの楽器。極めて原始的で実用性第一だという印象があります。 それに比べて、アンドレアの作品には何度見ても見飽きない複雑さがあり、一つの楽器を構成する全ての「線」がなんらかの意図を持って形成されています。このような洗練されたヴァイオリンが、ガスパロのいともシンプルなヴァイオリンよりも先に作られたとは考えにくかったのでしょう。 しかも、やっかいなことに、ガスパロを代表とするブレシアの製作者たちはクレモナの製作者とは異なり、作った楽器のラベルに製作年を記録しませんでした。これでは、ガスパロがアンドレアに先駆けてヴァイオリンを作ったと思われたのも仕方がないのかもしれません。 幸い、今ではガスパロの生年月日の他、彼がブレシアに移住し楽器を作り始めたのが1562年だということが分かっています。 バレエの生みの親はヴァイオリニスト ほぼ同時期にアンドレア・アマティはフランス国王、シャルル9世(Charles IX de France)の宮廷に納めるための楽器を作るという重要な使命を帯びています。 何故、フランスの宮廷から遠く離れたイタリアのクレモナからこれらの楽器を注文することになったのでしょう?おそらく、その答えはシャルル9世の母親であるカトリーヌ・デ・メディシス(Catherine de Médicis)にあります。 イタリア、フィレンツェ出身のカトリーヌは、夫であるフランス王アンリ2世の死後、まだ幼いシャルル9世の代わりに摂政として政治を行います。そんなカトリーヌは根っからの社交ダンス好き。「舞踏会や晩餐会を週に二度は催すこと」という、家臣のため息が聞こえてきそうな、どう考えてもわがままな命令を出しています。 カトリーヌとシャルル9世にダンスを教えていたのは、彼女と同じくイタリア出身のポンペオ・ディオボノ (Pompeo Diobono)と、彼の弟子であるバルダッサーレ・ディ・ベルジオジョーゾ (Baldassare di […]

【名器のお話し】アンドレア・アマティ1566年『タリーハウス』


バイオリンのデザインと聞くと、まず思い浮かべるのがボディの輪郭ですよね。しかし、表板と裏板の膨らみ、つまり『アーチ』も楽器の音色と密接に関係するデザインの要素です。では、そのアーチはどのようにデザインされているのでしょうか。 バイオリンに重要なアーチ 16〜18世紀半ばのクレモナのバイオリンのアーチの美しさには目を見張ります。同じクレモナの楽器でも、アーチには様々なスタイルがあり、同じ製作者が作ったものでも時期が違えば、おもむきが正反対のアーチを使っていたりします。 しかし、彼らのアーチには、いつもなにか共通した文法のようなものが存在しています。常に美しくありながら、自由度が高いデザインの方法を知っていたのでしょう。 短縮サイクロイド曲線 クレモナの巨匠がアーチのデザインを得るためにおそらく使っていただろうと現在幅広く認められているのが、短縮サイクロイド曲線(Curtate Cycloid)というものです。 短縮サイクロイドを使ってオールドバイオリンを分析し発表したのはトゥリオ・ピゴリ (Tullio Pigoli)が初めてだったと言われていますが、これとは別に独自の研究を行い発表し、普及させたのがクエンティン・プレイフェア  (Quentin Playfair)です。ピゴリの記事は1984年4月号の『Liuteria』に、プレイフェアの記事は1999年11月号の『The Strad Magazine』に掲載されています。 短縮サイクロイドについての詳しい説明はここでは省略し、ここでは短縮サイクロイドを実際にどのように使ってアーチを描くのかをご紹介します。 Guarneri filius Andrea 1705 まずはデル・ジェスの父親であるグァルネリ・フィリウス・アンドレアが1705年頃に製作したバイオリンを例として説明します。古い楽器のアーチは経年変化によって歪んでいることが多くこの楽器も例外ではないのですが、ここでは一番歪みが少ない部分である裏板のアッパーバウツのアーチを使います。 まずは描きたいアーチの幅と高さをだします。ここで注意するのは、これらの寸法をアーチが一番低くなっている点を基準にして測るということです。なので、ここでいうアーチの高さ=表裏板の高さではありません。また、ボディの幅が同じ楽器でも掘りの広さによってアーチの幅は変わってきます。 2つの寸法を使ってこのような円盤を作ります。円盤が一回りしたときの距離、つまり円周がアーチの幅と一緒になるようにしたいので、直径をアーチの幅÷3.14で求めます。さらに円盤の中心からアーチの高さ÷2の位置に鉛筆の先が入る大きさの穴を開けます。これで準備完了。あとは動画にあるように簡単に短縮サイクロイドが描けます。 出来上がった曲線はこのようになります。美しいですね。では、サイクロイドで描いた曲線をオリジナルから写されたアーチと比べてみましょう。 歪みや製作過程で生まれる誤差を考慮するとほぼ完璧に一致しています。ここまで合っていると偶然とはとても思えません。 グァルネリ・フィリウス・アンドレア 1705年製バイオリンアッパーバウツ 幅:154mm 高さ:9.5mm 表板は裏板に比べると歪みが酷く、短縮サイクロイドが当てはまらないことが多いのですが、このフィリウス・アンドレアでは裏板用に描いた曲線がピッタリとあいます。 大きさの違う円盤をいくつか用意すれば様々なモデルに対応して使えます。アッパーバウツのみならずセンターやローアーバウツのアーチも描けますし、もちろんビオラ、チェロにも対応できます。 Guarneri del Gesu […]

アーチのデザイン