木村哲也
バイオリン製作家

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【名器のお話し】サント・セラフィン1740年バイオリン

ストラディヴァリに匹敵するといわれるチェロを作ったことで有名なマッテオ・ゴフリラ (Matteo Goffriller) とドメニコ・モンタニャーナ (Domenico Montagnana) 。この二人は、クレモナで活動していたストラディヴァリやグァルネリとは違い、ヴェネチアに工房を構えていました。

ヴェネチア派を形成した製作者の殆どが、ヴェネチア外から移住してきた職人です。各地から異なるスタイルを持ち込み、また、互いに影響を与え合ったことから、彼らの作ったモデルにはかなりのばらつきがありました。 ヴェネチア派の特徴は、即興的で緩いアプローチにあるといえるでしょう。

しかし、そんなヴェネチア派の中において、その洗練された技とアマティを彷彿させる優雅さをもって異彩を放っているのが、サント・セラフィン(Santo Serafin)。ヴェネチアで最も上品で華麗なヴァイオリンを生み出した名工です。

セラフィンの生い立ち

セラフィンは1699年11月、ウーディネに生まれています。ヴェネチアからおよそ130km北東に進んだ位置にあるこの街は、当時ヴェネチア共和国の第二都市として栄えていました。

セラフィンだけではなく、同じくヴェネチアで活躍したフランチェスコ・ゴベッティ(Francesco Gobetti)もウーディネの出身です。また、マッテオ・ゴフリラの息子、フランチェスコ(Francesco Goffriller)はヴェネチアからこの地に1714年に引越しをし、工房を構えています。

当時のウーディネでヴァイオリン工房を営んでいたのは唯一、このフランチェスコ・ゴフリラだけ。ヴェネチアへ辿り着いたときには、既にセラフィンは高度なヴァイオリン製作の技術を身に着けていたことから、サラフィンはフランチェスコ・ゴフリラからヴァイオリン製作の技術を学んだと考えられています。

サントが故郷のウーディネからヴェネチアへと移り住んだのは22歳のとき、1721年のことでした。ヴェネチアには既に二人の兄が住んでいたので、新しい暮らしにも早く慣れることができたでしょう。

ピエトロ・グァルネリ・オブ・ヴェニスがこの1721年に製作したヴァイオリンを前回はご紹介しましたよね。その際、それまで業界を牛耳ってきたマッテオ・セーラス(Matteo II Sellas)のお店がこの頃から不景気に悩まされ始めたことをお話ししました。

セーラスだけではなく、彼と共に長らく市場を独占してきたマッテオ・ゴフリラの成功に徐々に陰りが見え始めるのもこの頃です。1725年以降、ゴフリラの生産力は急激に低下していきました。

対するセラフィンは、この1725年頃から本格的にヴァイオリンを作り始めています。

順風満帆の人生

1732年、セラフィンはヴィンチェンザ・アウグスティーニ (Vincenza Augustini)と結婚しています。ただ、二人の間に子供が生まれることはありませんでした。このことが原因で、後にセラフィンは妻の結婚持参金を払い戻さなければいけない危機に立たされています。今ではちょっと考えられないことですよね。

翌1733年4月、セラフィンは、既に数々の楽器店がひしめき合っていた小路、カレ・デイ・スタグナーリにお店を開いています。 同じ年の秋にピエトロ・グァルネリ・オブ・ヴェニス(Pietro “of Venice” Guarneri)がこの小路にあったセーラスのお店を去り、独立したことは前回お話ししました。

新しいお店を出す場合にはギルドに会費を納める必要があったのですが、セラフィンの場合、本人ではなくルナルド・マリオット(Lunardo Mariotto)なる人物が代わりに支払っています。

マリオットは自分の息子がいつの日かお店を開けるようにとお金を貯め、ギルドにも支払いを既に済ませていました。しかし、こともあろうにその息子が工房を構える前に死んでしまいます。そこで、払ったお金が無駄になるのもいやなので、支払い分をサント・セラフィンの会費に回してくれるよう、ギルドに頼んだのです。

独立する以前に周到綿密な準備を進めていたのでしょう。『アラ・マドンナ・デイ・セッテ・ドロリ』(7つの悲しみの聖母、 alla Madonna dei Sette Dolori)と名付けられたセラフィンのお店は、開店後間もなく大繁盛しています。

この頃、ヴェネチアでナンバーワンの座に君臨していたのは、モンタニャーナです。独立してからおよそ20年。やっと頂点に登りつめた彼のお店のすぐそばに開業したセラフィンは、モンタニャーナの収益にすぐ追いついてしまいました。凄いものです。

1735年、ゴフリラが健康上の問題から製作を続けることが困難になってしまいます。セーラスのお店もマッテオ・セーラスが1731年に亡くなってしまってからは、かつての活気を取り戻すことはありませんでした。この先、1740年頃まで、セラフィンはモンタニャーナと並んでヴェネチアで最も成功を収めていた製作者でした。

しかし、セラフィンは何を思ったか、1744年、突然お店を閉めてしまいます。44歳、まだまだこれからという年齢のときのことです。

ヴェネチアで活動していた多くの職人と同様、どうやら、セラフィンも税金やお店の維持費の高さに徐々に首が回らなくなっていたようです。 セラフィンが毎年払っていたお店の家賃は、当時、大人1人が1年間不自由なく暮らすのに必要な生活費の7割ほど。これに毎年ギルドに払っていた税金も足すとかなりの額になります。

貧困に苦しむということはさすがになかったようですが、1737年と1741年に、セラフィンは税金を減らしてくれるようにとギルドに願い出ています。

お店をたたむことで、コスト削減に成功、しかも、徴収される税額も大幅に引き下げられたため、セラフィンの暮らしはかなり楽になったことでしょう。

モンタニャーナとの仲

モンタニャーナがセラフィンの楽器を取り扱っていたことからも分かるように、この二人はライバルでありながら親しい間柄でもありました。彼らの作品からは、お互いにヴァイオリン作りに関してのアイディアを交換しあったことが読み取れます。

モンタニャーナがチェロの製作に力を入れていたのに対し、セラフィンはそれほど多くのチェロを残していません。お互いに競争の激しい市場で住み分けが出来るように、なんらかの取り決めが二人の間に存在していた可能性があります。

ドメニコ・モンタニャーナが亡くなったのは1750年のこと。翌年、1751年にはサント・セラフィンの甥であり、弟子であったジョルジオ・セラフィン(Giorgio Serafin)がモンタニャーナの娘、アントニアと結ばれています。それだけではありません。結婚と同時に、ジョルジオはモンタニャーナのお店、『アラ・クレモナ』を引き継いでいます。

モンタニャーナの死後もセラフィンは少数ではありますが、楽器を作り続けています。1758年に作られたとされる、オリジナルのラベルが残されたチェロが現存している他、同年に彼がまだ楽器製作者であることが記された文書が残っていますので、少なくともこの年までセラフィンは活動を続けていたのでしょう。

1740年作バイオリン

今回ご紹介しているのは、サント・セラフィンが1740年頃に製作したヴァイオリンです。

セラフィンの作品が他のヴェネチア派の製作者と一線を画すのは、その安定した品質とモデルです。彼が使ったモデルは、ストラディヴァリのロング・パターンを思わせる少数の例外を除くと、そのほとんどがアマティとシュタイナーのハイブリッドです。

ヴェネチアで昔から根強い人気を誇っていたシュタイナーと、18世紀になって流行ってきたクレモナ・スタイルの融合ですから、これが当時のヴェネチアで売れないわけがありません。

セラフィンの楽器にばらつきがないのは、もちろん卓越した技術があってからだこそののですが、彼が採用した製作法も鍵でした。セラフィンは、どうやらピエトロ・グァルネリからヒントを得て、内型を使った製作法を取り入れたようです。

内型は、アンドレア・アマティ以降、クレモナではヴァイオリン作りの土台となっていました。しかし、ヴェネチアでは、あまり使われていませんでした。内型は安定した質のヴァイオリンを大量に作るのに向いています。

セラフィンの楽器の特徴はなんといっても、その曲線美にあります。丸みをおびたラインとしなやかなコーナーを持つ輪郭、堀が深くダイナミックなアーチ、今にも前へ動き出すかのようなスクロール、左右への動きが激しく、踊っているかのようなf孔と、どの部分をとっても女性的な美しさに溢れています。

細部への気遣いが行き届いており、非常に丁寧に作られていることもあり、ゴフリラやモンタニャーナが持つ生々しい躍動感には欠けていますが、劇的でありながら、しとやかな雰囲気を併せ持つのがセラフィンのヴァイオリンです。

サント・セラフィンのヴァイオリンはパワーに欠けるといわれますが、彼の楽器を愛用した演奏家は数多く、アンリ・ヴュータン(Henry Vieuxtemps)、 ヨゼフ・シゲティ(Joseph Szigeti)、ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin)などがセラフィンを所有していました。

1775年1月に甥のジョルジオが息を引き取り、1年後の1776年2月6日、サント・セラフィンも永遠の眠りについています。半年ほど寝たきりの生活を余儀なくされた後のことでした。

サント・セラフィンには跡継ぎとなる子供がいませんでしたが、彼のユニークなスタイルは幸いなことに、甥ジョルジオを介してヴェネチア派最後の巨匠、アンセルモ・ベロジオ(Anselomo Bellosio)に受け継がれることになります。

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